涅槃まで百万歩

中華とラーメンと酒の日々

上野恩賜公園 上野大佛

いつものように時間を持て余している休日、やっぱり上野へ出向く確率がとても高いですね。そんなこんなでブラブラと、『上野恩賜公園』内を散歩しております。するとずいぶんと立派な立て看板が目に止まりました。『東叡山寛永寺 上野大佛』、意外と目立たない場所に看板があります。いったいどんな「大佛」なのでしょうか。

f:id:yokobentaro:20150116111236j:plain

こちらの看板、公園の正面入口から噴水へ向かう途中の、メイン通りの桜並木の左側に並行する小道にあり、小高い丘の上へと階段が続いています。ふと、その横には「台東区教育委員会」が設置した説明書きの金属プレートが設置してありました。

f:id:yokobentaro:20150116111309j:plain

f:id:yokobentaro:20150116111328j:plain

その概略をご説明しますと、この丘は昔「大仏山」と呼ばれていて、越後村上藩主が一六三一年に粘度と漆喰で二メートル八十センチの釈迦如来像を造立したそうですが、一六四七年に地震で倒壊。後の一六五五年から一六六〇年にかけて今度は青銅で三メートル六十センチ超えの釈迦如来坐像を造立。さらには一六九八年に仏殿を建てたものの、一八四一年の火事で被害を受け、それでも一八四三年には大仏は修復され、仏殿も幕府が再建。またもや一八五五年の大地震で大仏の頭部が倒壊するもすぐ修復。ここまでが江戸時代の出来事ですね。

明治六年から十年あたりに、上野公園開設で仏殿は取り壊されてしまい、大仏だけが残ります。大正十二年には関東大震災で頭部が落下、さらには第二次世界大戦で大仏の体・胸部を国へ供出したので面部のみが寛永寺に遺ったそうです。その面部を寛永寺が昭和四十七年にレリーフ状にし、この地に奉安して現在に至るようです。

この丘の正面にある建物は「パコダ(仏塔のこと)」と呼ばれていて、昭和四十二年に上野観光連盟が上野公園の名所として建設、その内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側には日光菩薩が安置されており、江戸時代末期までは東照宮境内の薬師堂に安置されていたようです。

f:id:yokobentaro:20150116111402j:plain

その「パコダ」がこちらの写真になりますが、内部は撮影禁止でしたのでお参りのみ。確かに内部には立派な仏像が三体安置されていました。こちらは就職祈願で訪れる方が多いとか。

f:id:yokobentaro:20150116111419j:plain

さらには、「上野大佛」でも参拝いたしました。顏、巨大です! こちらの参拝客は受験生が多いとのこと。散々な災害で落下した頭部、でも現在は面部が壁で固定されていて「これ以上落ちない」そうです。

ところでこの「だいぶつ」の表記、「大仏」と「大佛」のどちらが正解なのでしょうか? ここの案内、どちらの表記も混在していて、とても気になります……。

●昨日歩いた歩数……一万五千二歩。あと少し頑張らないと!